昭和四十五年九月七日


x 御神誡「腹立てば心の鏡のくもること、」


 段々分かって参りますと、いわゆる、腹立てば心の鏡のくもること、とゆう事は、もうそこに、映らなくなる、おかげが映じない、といったような、道理が分かってくる。
 そこで腹立てちゃ馬鹿らしか、とゆうような気持が出てきて、本当に腹立てちゃ馬鹿らしかと、もう、言わば利害関係に、一番これは密接な、心の状態だと思いますね。
 腹立てては馬鹿らしいと、だから、そこ迄でもひとつ、本当の道理が分からせてもらったら、本当に有難いと思いますねえ、腹を立てては馬鹿らしかと。
 ひとつ、どうゆう事の場合でも、お互い腹を立てんで済むおかげを、頂かせてもらいたい、腹を立てるとゆうだけではなくて、例えば今日の焦点でありますように、全ての事を有難うございますと、受けてゆけれる自分になろう、私にならせて頂こうと、そうゆう精進もさせて頂いて、色々に工夫させて頂くわけです。
 他所では腹を立てんけれども、家に帰ってくると、途端に腹を立てる、家では腹を立てんけれども、他所で腹を立てる、内まえがいゝか、外まえがいゝとゆう人があります。
 あれは、どうゆうような事からだろうか、他所で腹の立つ事があっても、言わばグウグウ云うて、こらえとる、こらえておる事が、内に帰ったらプンプン出てくる訳です、何そげん腹かいとんなさるなら、プンプンしなさるんですかと、ゆうような事になってくる。ですから、それが又、こらえられておる事が、家に帰ってもこらえられておれば、まだいゝのですけれども、家に帰ってきた途端に爆発する。
 してみると、一日辛抱しておった事が、もうそれで元になってしまう、元にかえってしまう訳ですからねえ、ひとつ、辛抱のしついでに、矢張り外で辛抱しとっても、内でも矢張り辛抱させて頂く精進、そこからが、私は信心じゃなかろうかと、こう思う。
 中には反対の人もあります、他所では非常にプリプリする、内ではもう本当に、内まえがいゝとゆう人があります。
 どうゆう訳に、そうゆう風になるかと云うと、内の中にでも矢張り、こわいものがあると矢張り、言わば辛抱しておる外に矢張り、こわいものがあると、やはり外では辛抱しとると、こわいものがないと、言わば腹が立つ、結局は我まゝだとゆう事になる。
 そこで、その我まゝとゆう事を、私共が徹底、自分の心の状態の中から、取り除いていくとゆう事が、私は、お道の信心の神髄と云われる、実意丁寧神信心、とゆう事だと思う。
 我まゝと腹立ちが、どうゆう関係があるかと、横着と腹立ちがどのように関係があるか、とゆう事は、例えば三代金光様まだ御在世の頃、ある青年が青年式を終えて、お礼参拝をさせてもらった。
 云うなら、大人の仲間入りをさせて頂いたのですから、金光様にその事を、お礼申させてもろうて、 「金光様、これから大人の仲間入りをさせて頂くのですが、どうゆう心がけで日々の信心、又は生活に取り組ませて頂いたら、よろしゅうございましょうかと云うて、お伺いをさせてもろうた。
 そしたら、金光様が仰られた事は、「実意丁寧になられたら結構です」と仰った。 だから、実意丁寧とは、言わば辞を低うするとか、やわらかにあるとか、とゆう事だけではない、実意丁寧とゆう事は、どうゆうような事かとゆう事を、よく分からせて頂くと大変難しい、ですから、「金光様、実意丁寧とは、どうゆう事でしょうか」と又、重ねてお伺いさせて頂いたら、金光様が仰っておられる事は、「我まゝと横着をせねば結構です」とおっしゃった。
 私は、この事を聞かせて頂いてです、実意丁寧、実意丁寧と云うけれども、例えば商売人がお客さんに、毎度有難うございますと云うて、丁寧に頭を下げたり、丁寧な行儀作法とか、といったような事のようにばあっかり思うておった。
 又、中味が出来てくるから、そうゆうような事にもなるのでしょうけれども、これが例えば、そんなら売らんかなの為に、辞を低うしておったり、辛抱して、腹の立つばってんこらえとこうと、ゆう事になったのでは、例えば、もう既に心の鏡は曇っておる。
 形に出さないだけなんだ、ですから、辛抱だけではいけない、そこで私共がですねえ、いわゆる、ぎりぎりの自分とゆうものを、見極めさせてもらう稽古を、信心によってさせてもろうて、実意丁寧になられたら結構です、とおっしゃる、その実意丁寧とは、どうゆう事でしょうか、実意丁寧とゆう事は、横着と我まゝをせねば結構ですと、そこで、私共がぎりぎりの自分とゆうものをです、見極めさせて頂く時に、どこに指で押すだけでも、我まゝどんが出来る私ではない、横着ども云うておられる自分ではない事が、極められてくる。 腹を立てるとゆう事は、慢心だと、確かに究明して参りますと、腹の立つ、その元とゆうものをですね、究明してごらんなさい、もう確かに思い上りです、慢心です。
 例えば、身近な例をとると、家内が主人に対して、粗末な態度をとったり、言葉使いをしたりと、「主人に向って何とゆう事か」ともう腹が立つ、その主人そのものを、ひとつ極めてみなければいけん、本当に私が主人として、云えれる私であろうかとゆう事なのです、自分を究めていくと、本当に自分のようなものがと、ゆう事になってくる時です、そこには、例えば腹の立つような事を云われても、腹を立てんで済む、それがたの私、それがたの自分とゆう事を分からしてもらう。
 確かに腹を立てるとゆう事は、自分の思い上りです、様々に腹の立つ場合を問題にしてです、ようく究明して御覧なさい、どうゆう場合であっても、腹を立てるとゆう事は、慢心です。
 信心によって、腹立てば心の鏡のくもる事と仰せられるから、ひとつ、腹を立てん修行をさせてもらおうと、本気で取り組ませて頂く、初めの間は、まあまあ云うなら、腹の虫がぐうぐう云いよるけれども、それをじっと押えて、堪忍だ堪忍だと思うて、少し辛抱する、けれども、それはもう既に、心の鏡が曇っているも同じ事、だからその辛抱だけではなくて、自分自身を極め、自分自身を掘り下げてみてみると、腹を立てるとゆう事の、資格のない自分、腹を立てる資格のない私、とゆうものが極められて参ります。
 そこから又、あわてんで済むおかげも受けられる、私共の心からいわゆる実意丁寧、いわゆる我まゝと、横着をせねばと こう、我まゝとゆう事が大変に難しい。
 横着な心とゆうのが仲々 ないようであって、あるのである。
次の条に、「我心の角で我が身を打つ事」とゆう御教があります。 自分自身に、例えば腹を立てる要素と云うか、元とゆうものがある、自分の心の角で、我身を打つ、自分の心から腹を立てる、そうゆうところに、いわゆる和らいだ心、いわゆる我が心が又、大事だとゆう事が分かる。
 腹を立てると、心の鏡が曇ると云う、心の鏡が曇ればおかげが映じない、そこで馬鹿らしい、腹立てちゃ馬鹿らしか、もう徹底して腹は立てんとゆう、修行させてもらいよると、段々腹も立たんようになる、そして確かに、久留米の石井さんじゃないですけれどね、腹立てちゃ馬鹿らしかと、ゆうところから、確かにそこに体験が生れてくる。
 そこから今度は、又次にはね、今日の焦点でありますように、腹の立つような事柄に、直面した場合でも、それが信心で受ける、神心で受ける、眞心で受ける、又は、信ずる心で受ける事になるとです、それが有難いとゆう事になる。
 どうゆう事になるかと云うとね、信心とは信ずる心と、神様を信ずる、そんなら、自分の周囲周辺の姿とゆうものが、そのまゝ神様の姿だと、自分のそれは、もう心の表れだとゆうような、道理が分かって参ります、それを信ずるようになる。
 ですから、どうゆう事になるかと云うとね、もう例えば、相手の人が、腹を立てにゃおられんような事を云うたり、態度にとったりするとね、それがそのまゝ神様の姿に見えるようになる、それがそのまゝ神の声に聞こえるようになる。
 それこそ、そのムカッとするような心がですね、それが ひどければひどい程、「神様すみません」と、神様の前に、平伏する心が生れてくる、相手の人を神様と見るのですから、云うておる事を、神の声と聞くのですから。
 ですから、もうそのひと事がもう、それこそ、心の中に突き刺さるように、ひどく感じる、とゆうような事が、あればある程神様済みません、とゆう思いが強くなってくる。
 言わば眞心で又、それを受ける、そこにはね、その腹立たしい事を云うたその人までがね、その眞心の中に溶け込んでくる、いや、むしろ向うの人がね、反省してくる、自分一人の助かりではなく、相手まで助かってくる。
 これはお互いが、眞心で受けた場合です。
神心で受ける、そこにはね、もう云うなら、仏教で云うなら、菩薩級とでも申しましょうか、いわゆる菩薩級の、お徳を受けると云うか、お道の信心で云うたら、金光大神の神格と云うか、金光大権現の神格を、受ける程しの人であるならば、そこに金光大神としての心の状態がです、その事を受ける。
 途端にどうゆう事になるかと云うと、それはもう神心ですから、いわゆる神心で受けるのですから、そこには霊妙不可思議な、言わば神徳の世界に迄も、相手を導いていく、おかげを受けられる。
 私共は、段々信心の稽古をさせて頂いて、腹立てば心の鏡の曇る事、とゆう神誡、信心させて頂きよって、腹どん立てちゃならんぞと、やはり発心させてもろうて、腹を立てん修行を、いっちょ本気で取り組もうと、ゆうようなおかげを頂く。
 ところが矢張り、腹の立つような問題があまりにも多い、そこで色々御教を頂く事によって、分からして頂く事は、その腹立ちの元とゆうのは、どこにあるか、我心の角で我身を打つとゆう、我心の角が我身を打つ事になったり、又は腹を立てるとゆう事が、自分の思い上りであると気付かせてもらったり、言わば腹を立てるとゆう事は、もうそれは既に慢心だと、ゆうような事が、本当に実感的に分かるようになる。
 又は、自分自身とゆうものを、掘り下げて掘り下げて、掘り下げてみると、腹を立てる段の資格はない、とゆう事が分かる、そのようにして、腹の立たんで済むおかげを頂かしてもらう。
 段々、そこから生まれてくる体験と同時に、本当になる程、腹立てちゃ馬鹿らしか、とゆう事がようく分ってくる、そこからね、いわゆる神様を信ずる心が生れてくる、信ずる心が生れてくると、そこにはね、もう私の周囲 周辺が全て神の姿に見えてき、神の声に聞こえてくる。
 ですから腹の立つ段じゃない、神様から、例えば腹の立つような事に、何がかと云うて、腹かいておったのがです、例えば神様に大きな声をされたら、もう、その場で平身低頭、相済みませんと、お詫びをしなければおられないような、心の状態が生れてくる、信ずる心とゆう事は、そうゆう事。
 全てを、例えば神の姿と見、神の声と聞く、そこに、私は、有難い信心が生れてくる、段々、そうゆう心の中から、生れてくる心が眞心、眞心をもって、それを受けさせて頂く時に、私がおかげを頂くとゆうだけではない、もう自他共に、おかげを受ける世界がそこにはある。
 私共の信心が、段々進んで参ります、そして矢張り、菩薩級とでも申しますか、金光大神級、私共が此方の事を、生神生神と云うけれども、此方ばかりが生神ではない、こゝに参っておる皆んなも、同じおかげが受けられる、此方がおかげの受けはじめ、みんなもこのようなおかげが受けられると、教えられてあります。
 金光様の信心の、目指すところとゆうのは、やはり生神の境地なのです、ですから私共は、そうゆう素晴らしい境地を目指して、日々信心の稽古を、させて頂いておる。
 そんなら、生神の境地とはどうゆうものかと云うと、丸い手まりのようなものだと、しかもそれに、喜びとゆう字が いっぱい書いあるようなもんだと仮定して、どちらへ転がしても、喜びしか出てこないとゆうのである。
 だから、たまには私共そうゆう事がある、信心の無かった時代の私だったら、例えば今日のような事に直面したら、それこそ、もうカッときて、それこそどのような事を云うたりしたか、分らんのだけれども、段々おかげを頂いてから、かえって、それが有難いものに聞こえてきたり、ひヾいてきたり感じた、とゆう事になつてくるそうゆう事がね、その時だけは、もう既に生神なんだ、だからそうゆう状態を、いつも維持する、そうゆう状態を、いつも自分のものにして、自分のものになしきった時が、生神金光大神の境地、とゆう事になる。
 ですから、私共が目指すところはそこなんだ、だから、腹立てば心の鏡のくもる事とだけ、御神誡を頂きますとね、信心しよる者は腹かいちゃならん、とゆうような事だけだけれども、それも、ひとつ本気で腹は立てんぞと、ゆうような人があって、その事に精進させてもらう、ところが矢張り、いろんな問題に直面します。
 けれども腹を立てちゃならんと、辛抱しておるうちに、辛抱だけではつまらん事が分かり、教えを頂かせてもらいよつて、今日、私が申しましたような過程をたどってです、腹の立つとゆう事は、もうなくなってくる。
 私の前にはもう、腹立たしいとゆう事はなくなってくる、自分の周囲が全て、云うならば神の声、神の姿に見えるようになる、自分自身が極楽にあるようなものなんだ。
 そうゆうところ迄も、高められていく事だと思います、信心とは  腹を立てんとゆうだけでなく、腹を立てちゃ馬鹿らしかとゆうだけでなく、その事がむしろ、合掌して受けられるとゆうところ、有難うございますと云うて受けられる。
 だからこの時まではね、それを有難うございますと云うて、受けられるのはです、言わば只有難いだけ、おかげを受けるだけ、けれどもね、それが云うなら信心で受け、眞心で受け、神心で受けられるようになってくる時にです、世の中の清まりと云うですか、世の中に、自分の頂いておる有難い世界を、いよいよ広めていく働き、とゆう事になっていく、そうゆう働きを、表していくとゆうところにです、私は、お道の信心が有ると思うのです。
 まず、ひとつ今日一日、どけな事があったっちゃ腹立てんぞ、と云うような事に取り組んでみる事です、そして、腹立てちゃ馬鹿らしかとゆう事も分かるがいゝ、いや、腹ども立てる資格の無い私、とゆう位に、自分自身と夕者を、本気で極めてみるがいゝ、掘り下げてみるがいゝ。
 そこから、今日私が申します、腹立てば心の鏡のくもる事とおっしゃる、腹を、云うならもう立てんで済む、最高の境地とゆうのがね、いわゆる神心をもって、それを受けられるとゆう時なのだ。
 私共の信心の程度が、今日の御理解頂いておると、分かるような気が致しますねえ、まあだ辛抱がいると、だから そうゆうところに、信心の稽古の決めてとゆうものをね、置いて参りますと、いわゆる、信心の本格派とでも申しましょうか、本当に いわゆる今月今日で一心に頼め、おかげは和賀心にあると仰せられます。
その和賀心とゆうものがです、いかに有難いものか、大切なものかとゆう事が分かってきて、おかげを頂いていく、それはもうそうじゃろうけれどもと云わずに、それは理想ですよと、割り切ってしまわずに、私はそれに取り組んで、一歩ずつでもそれに近づかせて頂くとゆう事が、信心の精進だと思うですね。      どうぞ。